〜「信濃デッサン館」の32年〜 上田と、槐多と、私と 

今年度2回目の文学講座は、信濃デッサン館・無言館館主の窪島誠一郎さんをお迎えした。
 幼少時、宮城県石巻疎開していたという窪島さんの話は、3.11大震災から始まった。震災直後、無言館の来館者がゼロという日があった。信濃デッサン館では冬の間誰も訪れない日があるが、無言館では初めてのことだった。その後も来館者数人の日が続く。館主と館員の緊急ミーティングが開かれた。「こんな時、美術館をやっていてよいのか?」 話し合いは2時間以上続き、「人間は生きている中で、ホッとしたい、よいものを見たいという気持ちがあるはずだ。不謹慎と言われてもよい。やりましょう!」という結論に達した。
 「文化とは役に立たないもの。例えたら、宅配の箱に入れる詰め物で、詰め物とは絵・彫刻・音楽・言葉・芝居のようなもの。自分が感動したことをいつも心の中にしまっておいて、それをいつか人に伝える。それが文化である。」と、窪島さんは言う。
 来年の夏、被災地で戦没画学生の絵を展示するプロジェクトが、現在進行中だという。また、栄村の「山路智恵絵手紙美術館」でも、戦地から送られてきた絵葉書の展示を計画、村役場と進めている。

 高校に通っていた頃、通りすがりの本屋で偶然手にした「村山槐多画集」が窪島さんの運命を変えた。それまではきれいな絵が絵だと思っていたが、槐多の強く激しい、情熱的な絵や詩に衝撃を受ける。その後、槐多の未発表作品が見つかったという信濃毎日新聞の記事に出会い、1977年、初めて上田を訪れる。その時案内してくれたのが美術評論家の小崎軍司さんで、ふたりは意気投合、前山寺脇の信濃デッサン館開館につながった。それから32年が立つが、上田はよそ者主義が強く、精神的な市民権を与えてくれない。また、山本鼎と槐多がいとこ同士だということや、槐多自身についても知らない人が多いことに驚くという。窪島さんにとって、「上田と槐多は一番大事なもの。」槐多を語る窪島さんは熱い。その土地が守り続ける義務のあるものがある。その点にもっと思いを及ぼさなければならないと語った。
最後に、昭和33年4月から5月にかけて銀座松屋で開かれた「村上華岳展」にまつわるエピソードを話された。売春禁止法条例が施行され、秋田から上京して身を売っていた19歳の少女は、死のうと思って熱海行きの切符を購入、そこで展覧会のチケットをもらう。初めて美術展を見た少女が、華岳の「裸婦図(観音像)」の前に立つと、絵の向こうから「死ぬんじゃない。必ず生きて帰っておいで」という母の声が聞こえた。彼女は「生きて秋田に帰ります。素晴らしい展覧会を開いてくださった皆様、村上華岳先生にお礼申し上げます。」と手紙を書き、この話は美術館を営む者のバイブルになっている。
「たくさんの本を読み、たくさんの人と出会い、たくさんの話を聞いてください。何かを好きになるということが、全てを救ってくれます。」窪島さんはそう締めくくった。

2時間にわたる講演の間、会場はひたすら窪島さんの話に惹きこまれていた。
信濃デッサン館」「無言館」は、上田における誇るべき文化であることを再認識させられた講演であった。アンケートには、「故郷上田の大切なものをなくしてはいけない。守っていかなければと強く思った。」「槐多にたいする窪島さんの情熱が伝わってきた。」などの感想が寄せられた。